講演家&PCスキルアップアドバイザーの晴田です。
今日は差別と区別のちがいについてです。
使い分けが大事
社会全体が
差別に対して
とても敏感になっています。
ですが
中には
区別を差別と呼んで
間違った批判をする声も
あるように感じます。
差別はダメだと思いますが
一方で
区別は必要なものです。
分かりやすい例ですと
フライ級のボクサーと
ヘビー級のボクサーが
本気で試合をしたら
命の危険があります。
ですから
階級という区別
を取り入れているわけです。
あれを差別と呼んで
すべてを無差別級にしたら
体格の大きい人ばかりが
活躍することに
なりかねないでしょう。
無差別級という呼び名が
正しいかどうかですか?
それは今回は
置いておきましょう。
他にも
差別化を図る
など
いろいろな言葉がありますが
そこではなく
今回大事なのは
本質のちがいについてです。
区別
差別の前に
区別について考えていきます。
先程のボクシングの例のように
ルールに則って
人やものなどを分けるのが
区別ですね。
トイレや銭湯など
この区別が大事ですし
各種競技でも
公平性を保つために
階級などの区別があります。
あとは性別の区別もありますね。
そもそもの体の構造からして
男女にちがいがあるのですから
当然のことです。
人それぞれちがいがあるため
ある一定の基準に則って
グループ分けすることで
対応しているわけですね。
社会で公平性を保つために
区別は必要なものです。
自国民と外国人に
差をつけるのは
当然の区別になりますし
大人と子供で差をつけるのも
保護の観点からの
当然の区別です。
何でも同じにすればいいというのは
強いものしか生き残れない
乱暴な理論です。
差別
ではよく取り上げられる
差別とはどういうものかというと
そこにはルールが無く
感情で分けるものと言えます。
つまり
明確なルールに則って
分けるのではなく
好き嫌いや
何となくで
人やものを分けることです。
嫌いだからとか
逆に好きだからとか
基準が曖昧で
気分によって
変わってしまうことすらあるという
まったく論理的でない分け方
それが差別です。
多くの場合
差別は
誰かを自分より下に見る
という状況を生むように感じます。
下に見ることによる
優越感と特別感
歪んだ自己肯定感
そういうものを得て
満足感を得るようなものです。
また
区別を歪めた差別もありそうです。
あくまでも例ですが
ヘビー級だから
下の階級を見下して許される
ということはないわけですが
区別によって見えた事実を
自分に都合の良い捉え方をして
差別するということもあります。
テストの点数や
足の速さや
何かの上手い下手
などいろいろありますが
明確な基準によって
グループ分けするところまでは
区別ですが
その後感情によって
上下を決めるのは
差別になるでしょう。
区別は必要
先程も述べましたが
社会に公平性を生むために
区別というものは必要です。
区別されるから差別だ
とはなりません。
ですが現状
まさにそんな理論で
差別を叫ぶ人もいるように思います。
もちろんルールが邪魔な人も
ルールに守られている人も
どちらもいると思いますが
少なくとも
個々には違いがある人間の集団が
社会というものを成立させる中では
全体のルールが必要であり
それによる区別も必要だと思うのです。
まとめ
差別と区別の違いは
簡単にまとめると
・差別は感情による分け方
・区別は明確な基準による分け方
となります。
区別をすることは
差別にはなりませんが
区別の基準については
論理的でなければなりません。
差別だと言われることが
何によって分けられたものなのか
考えてみると面白いかもしれないですね。
今日もありがとうございました。
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